『囁きと密告』

囁きと密告 ─ スターリン時代の家族の歴史(上)

囁きと密告 ─ スターリン時代の家族の歴史(上)

囁きと密告 ─ スターリン時代の家族の歴史(下)

囁きと密告 ─ スターリン時代の家族の歴史(下)

さまざまな家族によるスターリン時代の証言が生々しく、心に迫るオーラル・ヒストリーの力作。歴史に翻弄される人々の運命が、時に淡々と、時にドラマチックに描かれている。とにかく読んでも読んでも終わらない、というこの分厚さがいいよね(笑)
政治史だけが歴史なのではなくて……。その時代を生きた人々の息吹や、感情のゆらぎ、人間関係の複雑なせめぎあいなどから、リアルに浮かび上がってくる「歴史」の中にこそ、真実に近い何かがあるのだと感じました。
スターリン時代の強制収容所(グラーグ)システムが、おそろしすぎる……。何の罪もない市民がランダムに逮捕されて奴隷化され、国家の拡張のために過酷な環境で働かされ、使い捨てられていく。そうした社会システムの中では、人情や勇気をそなえ、他人をかばう強さをもった人たちから犠牲になってしまう。かえって日和見で冷淡な、積極的に他人を告発する人たちが生き延びる。家族がバラバラに解体され、多くの人生が無残に踏みにじられていくさまを読んでいると、無力感をおぼえます。圧倒的な現実を前にした人間は、なんと脆く、悲しい存在なのでしょうか。
でも、なぜか読後感は温かなものでした。一ヶ月以上かけて、少しずつこの大著を読み進めましたが、ラストでは、人間の強さや可能性を信じられる気がしてくるから、不思議です。声に出して物語ることや、記録に残すということは、歴史の犠牲者たちの情念を昇華する作用があるのかもしれません。(物語の「モノ」は怨霊のことで、物語るとは一種の鎮魂だといったのは、折口信夫でしたが……)
20世紀の前半は、農村が解体され、それを支える家族も解体されていった時代でした。都市化と工業化によって、先進国の人々は豊かさを手にしたように見えるけれど、大きな代償も払ってきました。第二次大戦と粛清によるロシアの犠牲の大きさには、ただもう呆然として、恐怖という感覚が麻痺してしまうほどです。
本書に登場する家族の資料が、下記のアーカイブで公開されています。
Orlando Figes [The Archives]

星新一と安部公房

星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

星新一〈下〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

星新一〈下〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

日本SFの黎明期を切り拓いた星新一の評伝。星製薬の御曹司で、森鴎外の妹(小金井喜美子)の孫という名門の出だったが、若くして父を亡くし、会社経営にもザセツしてしまう。家業を他人に奪われ、人間不信に陥った青年は、新しいジャンルの短編小説を書くことに生きる道を見いだしていく。
最相葉月さんのノンフィクションはストーリー性があって読みやすいです。説明とドラマ場面の配分も絶妙だなー。『絶対音感』でも母娘の絆が描かれていましたが、この本でも、家族や親子関係がテーマの底を流れている気がします。
安部公房伝

安部公房伝

さて、その星新一と酒場で同席するのを避けていた、という安部公房(新一に作品をけなされたのが原因らしい)。娘さんによる伝記が出たので読んでみました。SFを一般読者にも広めた新一と、前衛文学として世界的に高い評価を得た公房。現代社会にひそむ問題を、科学の知識をふまえてブラックに描き出す、という根っこは似ているけれど、方向性は真逆なふたりですね。
安部公房は北海道出身で、満州奉天で育ったという。長男で、若くして父を亡くし、東大卒なのは星新一と同じ(そして、どっちも奥さんがすごーく美人!)。公房には商才があったそうで、日本でも早くからワープロシンセサイザーを操ったりと、生き方そのものに器用さとしなやかさが感じられます。
思うに、権威や格式の下で育った人(新一)はポップをめざし、元からポップな人(公房)は高踏的に……というふうに、逆へ逆へと進む傾向があるのではないでしょうか?
アメリカで青春を送った父親の影響が色濃い星新一と、旧共産圏で大きな共感を呼んだ安部公房。などと、同世代のSF作家として、いろいろな面で対比できて面白いふたりです。

『エッセンシャル・キリング』

ポーランドの鬼才、イエジー・スコリモフスキ監督の最新作。荒漠とした谷間で3人のアメリカ兵を殺し、捕虜となったイスラム系の男が、移送中に雪山で事故にあい、からくも脱出。生き延びるためにひたすら逃げる、逃げる……。人間の業の深さや、飢えとの闘いなど、かなり哲学的な問いかけを、エンタメの手法でぐいぐい見せていく。老監督の手腕(かなりの豪腕!)に脱帽です。
主演のヴィンセント・ギャロも相変わらずの存在感でした。おどおどしてて自己チューな役柄が、最高にはまってる!(ギャロとスコリモフスキは『Go!Go! L.A.』で共演しているらしい。なつかしくも愛らしいダメ映画……)

カレル・ゼマン展

渋谷の松濤美術館へ。チェコアニメの巨匠、カレル・ゼマンの原画や絵コンテの展示を見てきました。かなり特撮に熱意を傾けていた監督だったようで。「悪魔の発明」とか「旧世紀探検」の書き割り、綿密ですごい。やっぱチェコ人って、コラージュ技法とかデザイン感覚がずば抜けてるね……。
「ホンジークとマジェンカ」のような乙女ちっく路線は、娘のリュドミラさんの助力が大きいようでした。

「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」展

葉山の近代美術館へ。モホイ=ナジはハンガリー出身、バウハウスの教師として活躍し、やがてアメリカに渡った。絵画や写真、グラフィックデザインなど、どれもが実験的で前衛ぽい作風。色彩は暗く、画面構成も無機的で、2つの大戦に挟まれた時代の閉塞感が伝わってくる。
第3展示室では、カラー写真がスライドで壁に映し出されていました。家族のスナップなどは、リリカルでほっとする雰囲気でした。

モホイ=ナジ 視覚の実験室

モホイ=ナジ 視覚の実験室

『ダンシング・チャップリン』

周防正行監督の新作。映画に触発されてローラン・プティが振り付けた作品を、ふたたび映画にする、という粋な企画。前半のドキュメンタリー部分が面白かった。後半はわりと舞台に忠実な映像化なのだけど、屋外に飛び出して撮影してあるパートは、やはり映画らしいというか生っぽく感じた。舞台はどこまでも夢の世界で、映画は現実の写し絵ということかもしれない。

「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」写真展

恵比寿の写真美術館にて。チェコスロヴァキア出身の写真家・クーデルカによる、チェコ事件(「プラハの春」弾圧)の生々しいドキュメント。これらの写真は、去年観たチェコ関連の舞台(ストッパード脚本の『ロックンロール』)でも使われていました。旧共産圏の民主化運動が武力で押さえ込まれた、冷戦を象徴する事件のひとつです。
20世紀には「歴史の目撃者」という視点から、躍動感あふれる傑作写真がたくさん生まれていますが(ブレッソンとか)、このクーデルカの一連の写真には、「歴史の当事者」がシャッターを切った時の、押し殺した激情、かわいた諦観……などが封じ込められていて、そこに冴え冴えとした静謐さが漂い、見る者の胸をうちます。
今や、世界中の「事件な瞬間」は、ウェブ上の動画でいつでも何回でも再生できるわけですが……モノクロで静止した一瞬の、視覚に訴えかける力は、やっぱりすごい。写真の威力をあらためて感じた展覧会でした。
そういや、帰りにミュージアムショップで、ばったりABC翻訳教室のKさんに会ったんでした。あれはびっくりしたなー。その後、水道橋で翻訳教室のうちあげにも参加して、もぐもぐ食べつつ、ひたすらオタクな話をしていたような記憶が(マンガとか映画とか)。ていうか翻訳の話は……?

ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968

ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968